私たちの心と記憶に存在する
ここではないどこかの街へ。

再来 ― 山谷の小さい芸術祭

2021年10月16日~17日の2日間にわたり、かつて山谷(さんや)と呼ばれた地域の各所で開催されたプロジェクト、「再来」を訪れた。企画者は、東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻の修士2年に在籍する黄志逍 (こう・ししょう)さんと、武蔵野美術大学大学院で映像写真コースで学ぶ楊璞頼馨(よう・ぼくらいしん)さんだ。2人に出迎えてもらい、黄さんに案内をしてもらいながら現地を巡った。

ヤドからドヤ街になった山谷

「ドヤ街」という言葉を耳にしたことがあるだろう。ドヤとは、「宿」を逆さまに読んだ語で、簡易宿泊所のことを指す。東京都台東区の北東部にかつて存在した山谷(現在の清川・日本堤・東浅草付近)も、ドヤ街と呼ばれる地であった。今もこの一帯には、1泊2000円程度の宿泊所が軒を連ねている。受付には、中国語や英語、韓国語など様々な言語での掲示があり、(この1、2年はコロナの影響で苦境を強いられているであろうが)インバウンド集客へとビジネスを切り替えていることがうかがえる。

さて、去る10月、このエリアで2日間にわたって開かれたプロジェクト「再来」。「山谷の小さい芸術祭」という副題が付されている通り、山谷を舞台に、国籍も表現方法も異なる作家9組の作品を自由に巡る芸術祭だ。参加作家に海外出身者を多く据えたのは、山谷を「外から見る」ためである。

来訪者は、まず「再来」という店名の居酒屋の前で受付を済ませる。そこでガイドブックを受け取り、スタッフによる説明を受け、各自ツアーに出発。今回は、企画者の一人である黄志逍さんに案内をしてもらい、作品を巡ることになった。

芸術祭の受付となった居酒屋「再来」の前にて、企画者の黄志逍(こう・ししょう)さん(右)と楊璞頼馨(よう・ぼくらいしん)さん

聞けば、黄さんが山谷という街の存在を知ったのは、彼女の故郷である中国の各都市で見られる「城中村(じょうちゅうそん)」についてリサーチをしていた過程にあるらしい。城中村とは、もとは都市郊外にあった村が、急激な都市化が進むことで市街に囲まれ、いわば「取り残された」状態となる現象といえるだろう。

「日本に城中村のような地域が存在するかをインターネットで調べていて、山谷のことを知りました。ネット上には危険なエリアだという情報も見られましたが、自分の目で見て確かめようと実際に訪れてみると、危ないとは感じなかった。おじちゃん達が地べたに座って朝からお酒を飲んでいたり、カラオケをしたり、楽しそうに話している姿は、むしろ自由に映りました。その後、何度も通い、宿泊所のスタッフや居酒屋のママと話をしたりするなかで、だんだんと山谷について知ることになったのです」(黄さん)

2021年4月からプロジェクトの協力者を募り、地元の人へのインタビューや、山谷についてリサーチとフィールドワークを重ねてきた。6月にはプレ版のツアーを開催し、本番に向けて改善点を話し合った。こうして、宿泊所や区役所などの各所に配布して設置してもらうガイドブックも完成した。

街に着想を得た、それぞれの表現

黄さんの話を聞きながら歩いていると、通りで、赤い紐を身体にかけて反対方向に引っ張り合う2人に出くわした。張竣凱(ちょう・しゅんがい)さんによるパフォーマンスだ。


張竣凱《A Game》

《A Game》というタイトルのパフォーマンス作品で、力尽きるまで両者が互いに紐を引き合う。かなり苦しそうな状態が数分間続き、気づけば見ているこちらも自然と身体に力が入り緊張感が走る。これは、題名のとおり単なるゲームであるのかもしれないし、人間社会における力のバランス関係やさじ加減を表した作品ともとらえられた。

パフォーマンスが繰り広げられた通りのすぐ裏にある玉姫稲荷神社をはじめ、5カ所に「インタラクティブ音声地図」の作品を設置したのがリサ・ウォイテさん。ベルリン芸術大学から協定留学生として武蔵野美術大学の映像学科を学び、その後も日本に滞在し制作を続けているのだという。


リサ・ウォイテ《プレースレス:山谷》

ガイドブックの地図にあるQRコードをスマホで読み取ると、アプリが起動し、その場所から感じ取ることができる詩(私)的なテキストを読み上げる英語の音声が流れる。「San’ya, the name of this place, exists in everyone’s minds and mouths but is noted down nowhere(山谷という名のこの地は、すべての人の心と口の中にある。だが、どこにも記述はされていないのだ)」という言葉が、先ほど黄さんが話してくれた故郷の「取り残された村」のことを思い起こさせた。

さらに歩きながら、「このあたりにあるお店はどこもだいたい水曜日が定休日なんです。『水』はお金を流してしまうから縁起が良くないのでお休みにしているんだって、地元の人から聞きました」と黄さんが教えてくれる。

現在、午後2時。少し歩いただけでも、ビール缶を脇に地べたで寝ているおじちゃんや、労働者福祉会館の階段に座ってお酒を酌み交わす2人組、なぜか道路に脱ぎ捨てられたサンダルに出会い、居酒屋のカラオケから気持ち良さそうに歌う声を聞いた。
小さな店内で4、5人がお酒を飲んでいる「ソウル居酒屋」の前を通ると、客の中に、壁画を描いたBotchy-Botchy(ボチボチ)さんが交じり、地元の人と談笑していた(下の写真は、ちょっと写真を撮らせてほしいと、店のママにシャッターを閉めていただいた)。

「ソウル居酒屋」の壁画と Botchy-Botchy さん

日本に住んで17年目になるという彼はイラストレーター。様々な場所で壁画を頼まれて描いているのだという。
「竜と招き猫を描いてほしいという店のママの希望で、この絵を描きました。竜はお酒のボトルをぐるぐると昇っていくところ。いいでしょう?」と話しながら笑顔を見せる。「描いている最中に、近所の人に『電球を取り替えてほしい』と頼まれたりして、部屋に上がり込んで交換したり。いろんなことが起きましたよ」

変化する山谷の風景

その後も歩きながら「ここに来て制作をして、先入観や固定概念を取り払うことになったと参加作家みんなが言います。自分の見方が当たり前ではないということを知って、いろいろな人の生き方を理解し、尊重し、多様性を受け入れることにつながるといいなと思うんです」という黄さんの思いを聞く。きっと、日本に留学生としてやってきて、異なる言語や習慣の中で生活をして、彼女自身が感じたことがこのプロジェクトに表現されているのだろうと思う。

菊地知也《もっと山谷を好きになるために一緒に街の写真を撮ってください》

すると今度は、交差点の角にある中華居酒屋「泉」の前で、店のウィンドウに写真を貼り付けている人物を発見。菊地知也さんだ。ワークショップ型の写真インスタレーション作品で、菊地さん自ら写真機を改造してつくったピンホールカメラを参加者に渡して、通りの向かいにあるコンビニの前に立ち、様々な方角の好きな場所を10枚ほど撮影してもらうというもの。

参加者に撮影してもらった写真はすぐにコンビニでプリントアウトをして、先ほどのウィンドウに貼り付けていく。写真が増えていくごとに、街のイメージが360度浮かび上がってくる。
「ドヤ街ではない街になりつつある風景を、改めて切り取りたいと思ったんです。スカイツリーを眺めることができるこの交差点は象徴的ですよね。写真をパズルのように並べていって、みんながつくる山谷の姿がこの2日間でどうなるのか楽しみです」と菊地さん。

ピンホールカメラに改造した写真機を構える菊地知也さん

ちょうどウィンドウには中華料理のメニューが貼られていて、その上を覆うように写真が並んでいくプロセスは、選ぶもの・選ばれるものの関係を暗示しているようにも見える。ピンホールカメラで撮影されることで、一枚に寄るとぼやけてしまうのだが、全体を眺めると全貌が見えてくるのも面白い。

もう一人、写真による作品を展示したのは、丁昊(てい・こう)さん。展示場所は、ホテル寿陽の1階部分にある山谷カフェだ。「見えない都市」と題されたシリーズ写真は建物の壁に映る光を撮影した作品で、「何もない壁に窓のような光の形を見つけた時に、不思議な感覚になったんです」と丁さんは言う。


丁昊《見えない都市》の展示風景

「都市の光は日本人にとっては日常のよくある景色なのかもしれません。でも、私の故郷の中国・天津では、高層ビルもあるけれど建物と建物の距離がもっと離れているので、どこかに反射する光線の変化はこれほど豊かではありません」

どの作品にも説明書きは記されていない。見る人それぞれの記憶の中に、それぞれ自由なイメージを喚起させたいという彼の思いが感じられる。どこかで見たことがある光の景色。それは視覚的に見えなくても、どの人も心の中に持っているものだろう。

「再来」に込められた思い

そして、最後の目的地、泪橋(なみだばし)ホールへ。普段は映画喫茶として、映画の上映を楽しむことができる飲食店として営業をしているそう。この日は、高見知沙さんと小河原智子さんのユニットが制作した山谷が舞台となるドキュメンタリー映像が上映されていた。

高見知沙 & 小河原智子によるドキュメンタリー《サンヤロード》

スクリーンに流れるテキストを目で追う。山谷の歴史が記され、その時代を知る地元の人の会話が挿入される。ざっと要約すると、以下のようになる。

第二次世界大戦後の日本経済が急速な発展の兆しを見せる昭和30年代、土木建設や港湾荷役の労働需要が高まり、山谷には全国から職を求めて日雇い労働者が押し寄せた。全国有数の寄せ場へと成長した山谷地域は、まさに好景気を感じさせる賑わいぶり。東京オリンピックが開催される前年の1963年には、200軒を超える簡易宿泊所に約1万5000人の労働者が寝泊まりしていたという。
66年に山谷という地名は廃止され、90年代に入ると仕事が減少し、街はホームレスのイメージが強くなる。やがてドヤに住めなくなった者たちは路上へと流れ出た。
だが、2002年のFIFAワールドカップ日韓大会を機に、訪日外国人が多く訪れるようになる。12年にはスカイツリーが開業した。そして18年、山谷に暮らす元日雇い労働者の9割が生活保護受給者に。現在は、若いニューカマー族の移住者が増え、都市型小型スーパーの出店が続いているのだという。

この日、街を歩いてなんとなく感じた空気感が、映像を見て、腑に落ちる。だが、この映像ではさらに続きがある。「2030年、簡易宿泊所が外国人観光客向けの国際色豊かなホテル街へと変化。2040年には、世界中から長期滞在を目的とした若い旅行者が押し寄せる」と。

これまでの山谷、現在の山谷、そしてこれからの山谷。知らなかった街のことが、走馬灯のように映像に映し出されていた。……と、空間に流れる空気をドンと打ち砕くように、張飛(ちょう・ひ)さんの即興パフォーマンスが始まった。

即興で行われた、張飛さんによる《パフォーマンス》

大人向けの性的な映像を流し、モザイクをかけたり外したりと、少し刺激の強い内容だ。店内にいた人の中には、目をそむける人、笑いながら見入る人、反応はそれぞれだ。映像終了後、どう感じたかを張さんが皆に聞いてまわる。
「不快に思った人もいるかもしれません。人の許容範囲は、それぞれ違いますよね。その境目をみんなで言葉にして話し合いたいと思ったんです」と、張さん。彼の出番が過ぎても、店内ではその後もしばらく、国によって異なるジェンダーに対する考え方など、客同士の熱を帯びた会話が続いた。

最後に黄さんに改めて「再来 ― 山谷の小さい芸術祭」について聞く。
「私を含めた外国人を主なメンバーとして構成し、本当の異邦人から見た『異邦人』の生き方や生活を見直したかったんです。山谷では、元・日雇い労働者の人たちも高齢になり、介護福祉が必要となっています。一方で、若者のバックパッカーが訪れる地にもなっている。今回のプロジェクトでは、山谷で起きているダイバーシティのあり方を感じてもらい、出身や年齢、障がい、経済的地位によってつくられた社会的地位の不平等をなくし、それぞれの違いや多様性を尊重する社会について考えるきっかけになったらうれしいです」

山谷を歩き、すべての作品を巡った。
だが、「山谷」のことは、1日いただけではわからない。だからまた、ここに来てみようと思う。ああ、「再来」とは、こういう意味であったのかもしれない。

 

写真:高橋マナミ 文:中村志保