その人が録音し、再現した音は、絵に似ていた。
聞くたび異なる発見がある。雰囲気を放つ音だった。
奏楽堂バーチャルコンサート
東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科で、音響学と録音技術を専門とする亀川徹教授は、NHKで番組制作の音声や、N響コンサートをはじめとする音楽番組を担当した経歴を持つ。ハイビジョン5.1チャンネルサラウンド、22.2マルチチャンネル音響など、最先端の音響技術や録音の研究に携わり、常に新たな音の表現方法を探り続けている。ここでは、昨年末に開催されたコンサートにて亀川教授が3Dオーディオで収録し、オンラインで公開中の「奏楽堂バーチャルコンサート」の制作過程を紹介しながら、彼にとって音とは何か、音響とは何か、聞く。
2020年11月8日に東京藝術大学奏楽堂で開かれた、オルガンのコンサート「変奏 Variations −装いを変える音−」は、変奏曲を主軸に、神秘的な世界をオルガンとチェンバロ、映像で展開するものだった。コロナ禍にもかかわらずオルガンファンの観客でほぼ満席となった会場で、音楽学部器楽科の廣江理枝教授の演奏がスタートし、一気にパイプオルガンの荘厳な音色に包まれた。
客席からは前方にあるパイプオルガンを少し見上げる格好になり、あることに気づく。頭上のだいぶ高い位置に、奇妙なかたちで紐が張り巡らされているのだ。ちょうどサーカスの綱渡りのようなのだが、よく見ると、紐からは十字に組まれた棒が吊るされ、そこには何体ものマイク(のようなもの)が四方に向けてセットされている。目を凝らすと、パイプオルガンの近くにも何やらマイクらしきものがある模様。会場内に様々に仕掛けられたこれらはいったい何なのか。
さっそく種明かしをしてしまうと、録音用の装置である。だが、大がかりかつ複雑に組まれたセットの通り、通常の録音とはかなり異なるものなのだ。
「立体音響」って何?
さて、前日のリハーサルでは、演奏者とは別に、忙しく立ち回りながら作業をする人物がいた。亀川徹教授である。会場での演奏を立体(3D)音響システムで収録するため、準備の真っ最中。研究室の学生に手伝ってもらいながら、「このケーブルをもう少しこう……」と指示を出しながら装置を組んでいく。
コンサートの本番当日に見たマイクはこのように準備されていた。これは後日、オンラインでバーチャルコンサートを配信するためのセットだったというわけだ。
ちなみに3D音響システムとは、「従来の2チャンネルステレオに加え、センターや後方、上下にもスピーカーを配置して、立体的に音像を再現するシステムのこと」だそう。実際の空間で音楽を聞いているような立体感を創出する、バイノーラルという再生方式に対応しているため、ヘッドホンでも臨場感のある音を楽しむことができるのだという。
言葉で説明するよりも、この記事の下部に記されているURLにアクセスして、実際に聞いてみてほしい(ぜひヘッドホンを装着して)。後方から、前方から、右斜め上から……と、様々な方向から聞こえてくる音で頭が満たされる感覚といえばいいだろうか。その立体的な音というものを体感できるはずだ。
音をつくるために、すること
「通常の2チャンネルのステレオであれば、極端にいうと左右2本のマイクで録音すればOK。でも、音を立体的にするためには特殊なマイクが必要で、22.2チャンネルに完全に対応するには二十数本のマイクを使う必要があります。まぁ、実際のコンサートではお客さんもいるので、それは難しいですよね。そこで今回は、4本のマイクで様々な方向からの音を録る、アンビソニックスという技術を使いました。それに加えてオルガンの近くやホールの中央にも計十数本のマイクを使い、これらのスピーカーに対応できるようなセットを組みました」
と、亀川教授の話を聞いているこの場所は、東京藝術大学の千住校地にある音楽環境創造科のスタジオだ。低音用のものを合わせると計29個のスピーカーがあり、8Kの超高精細映像にマッチする音響システムである22.2マルチチャンネルに対応しているんだとか(素人には「?」でしかないのだが)。この3D音響の空間で再現されたコンサートの音を、さらにヘッドホンで聞く状態に合わせた信号にするというから驚きだ。
「人間の耳は左右にあるので、左右からの音はどちらから来ているのか判断できるけれど、前後の音は、顔を左右に振らないと、前から来ている音なのか後ろから来ているものなのか判別できないんですよ。それが、ヘッドホンで聞くと、顔をどちらに向けても音が来る方向がわからないので、動かない音は真上から来ているものだと脳が判断してしまう。だからCDなんかをヘッドホンで聞くと、歌など前方にあるはずの音が全部上に聞こえるんです。それでは不自然なので、演者が前にいるかのように耳の特性を考慮して調整するのがバイノーラルという技術です。ただ、人によって耳の形状は異なるので、本来ならそれぞれの人に合わせた状況をつくってあげるのが一番いいのですが、さすがにそれはできないので、簡易的な方法で行っています」(亀川教授)
人の感覚と音の関係性を操作する
人間の脳というのは不思議なもので、実際に演奏を聞くと、自分が頭の中でイメージする音に都合よく変換してしまうことがあるのだと亀川教授はいう。
「例えば、客席から離れていてもオルガンの音が聞こえるように、頭の中で響きなどを多少抑えてその音だけを聞くということができるものなんです。しかし、録音した音源ではそのような聞き方はできないので、そういう部分を調整するのも録音エンジニアの仕事ですね」
演奏とともに、演奏者や映像などの視覚的なものがあるか否かで、聞こえ方は大きく変化するということだ。
「映像にはイマジネーションを働かせる効果がありますからね。例えば、オーケストラでオーボエのソロがあるとしますよね。その映像があったり、実際の演奏を見ていたりすれば、ある程度、脳内でピックアップしてオーボエの音を選んで聞くことができるもの。その役割は目が果たしてくれているので、そういう聞き方が可能になるんですね。それが音だけになってしまうと視覚的な助けがないので、多少目立たせたい音を強くするなど、細かな調整が必要になります。聞く人にイメージさせるような手がかりを、音でつくってあげるということです」
もちろんこの作業の過程には、亀川教授自身が思う音にし、演奏者がその音を聞いたうえでの意見を受けて、さらに調節するという、極めて感覚的なやりとりも含まれる。どんなにデジタル技術が進歩しても、演奏と音響の関係というのは、やっぱり人間的で、ちょっとアナログで、面白い。
なぜ音楽は面白いのか
もともと今回のプロジェクトに参加することが決まったとき、「奏楽堂を訪れたことがない人にも、気軽に聞いてもらえるようなことをしたい」と亀川教授は考えていた。
「特にクラシックのコンサートは、生演奏こそ本物、などとよくいわれますよね。独特な雰囲気をもつホールで座って静かに聞くというのも、もちろんコンサートを楽しむひとつのあり方ですが、スピーカーを使うことでもっと気軽に聞けるようなものをつくりたい。僕は録音する立場なので、録音でも表現できたらいいなと思うんです。音だけでも何か伝えられないか、できないか、と」
音楽の聞き方の好みというのは、人それぞれ異なるものだ。同じ音楽を聞いたとしても、その人のバックグラウンドや経験によって聞き方は違うし、感じ方も違う。亀川教授は、それには“人の記憶”が密接に関わっているのではないかという。
「聞くたびに音楽の感じ方って変化しませんか? 自分の精神状態や気持ち、時間帯、周りに一緒に聞く人がいるかどうかなど環境によっても変化する。録音された音源は固定されているものなのでそれ自体は変わっていないはずなのに、やはり聞くたびに違って感じるもの。これは音楽に限らず芸術すべてにいえることだと思うんですが、面白いことですよね。だからきっと、“何度聞いてもいいな”ってなるんでしょうね。そう、そこが僕の目指すところ。そういうものがつくれたらいいなっていつも思うんです」
録音されたものは「絵に似ている」というのが、腑に落ちる。見るたびに異なる発見があって、受け取り方は見る者に委ねられる。
「でも、それができるということは、芸術というものに普遍性があるからなんだと思う。何かわからないんだけど、存在しているもの。それがあるからこそ、受け手によって変化することができるのではないでしょうか」
亀川教授のこの言葉こそ、「I LOVE YOU」プロジェクトが掲げる「芸術は人を愛する」という思いを象徴するものだろう。
「実は、こんなにスピーカーが必要なの?って、よく聞かれるんですよ(笑)。もちろん、シンプルで小さなスピーカーで聞いても、ものすごく感動的な演奏というのはあるし、昔のSPレコードなんてノイズが入っていたりするけどゾクゾクするような素晴らしい音楽はたくさんある。でも、僕が取り組んでいるような3D音響だからこその空気感が、音楽を聞くうえでのひとつの要素になり得るはず。チャンネルがたくさんあるからいいというわけではなく、ひとつの表現として。SPレコードみたいなものだからこそ伝わることがあるように、こういう表現だからこそ伝えられるものがあると思っています」
インターネットを介して、3D音響による奏楽堂のコンサートの雰囲気をぜひ味わってみてほしい。あなたは、どう感じるだろうか。
写真:高橋マナミ 文:中村志保 編集:小林沙友里