そこは、計算できない現象たちが織り合う実験室。
その瞬間しか存在しない絵を、あなたは目撃する。
「映り」としての圧縮
古くから織物産業が盛んだった群馬県桐生市。美しい山々と水に恵まれたこの地には多くの繊維工場が立ち並び、今もなお稼働している工場もあれば、産業衰退の煽りを受けて閉鎖してしまった場所も多い。だが、そのいくつかはかつての佇まいのまま保存され、さまざまな目的で使用されている。その一つが山治織物工場だ。大正時代に建てられ、その後増築を繰り返して継承されてきた、趣深い木造の建物。東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修士課程2年の諏訪葵さんはここに滞在し、インスタレーション作品を制作。さらに、その風景をオンライン配信する《「映り」としての圧縮》なる試みを行った。
絶えず変化するものを映すもの
諏訪さんを訪ねたのは、もうすぐ太陽が真上に昇るかという時刻。自然光がたっぷりと注ぎ込み、風が心地よく通り抜ける建物で、机の上には、油や水で満たされたガラス製の深鉢やフラスコ、その液体を拡大して見せるルーペ、さらにルーペに映る光景をモニターやスクリーンに投影するためのビデオカメラやプロジェクター、プリズム、網戸、かつてこの工場で織物の生産に使われていた木製機械のパーツなど、さまざまな器材が一見、雑多に並んでいる。油はプロジェクターの熱によって溶け出したり、白熱球に温められて微動したり、風に揺られたり、光を反射させたりと、絶えず運動しながらゆっくりと変化する。またそれぞれの器具自体が壁に影をつくり、時おりゆらりと揺れる。部屋の奥から白衣を着た科学者がのそりと出てきそうな雰囲気である。
「これは、何?」。見る人は思うだろう。どこに視点を持っていけばいいのかわからない。だが、どこを見ても、見るものがある。諏訪さんが水を満たした深鉢にガムシロップのポーションを注いでかき混ぜると、水がぶわっと表情を変える。彼女が介入することで、インスタレーションはパフォーマンス作品の要素を帯びた。
「この部分にどのくらいの強さで力を加えたらこうなるだろう、というのはある程度感覚としてわかってはいるけれど、緻密に計算しているわけではありません。その時に生まれてくる現象をその場で感じながら状況をつくっています」と諏訪さんは言う。
静かに動くものたちを眺める静寂の時間が流れていく。太陽の位置が変化するにつれ、壁に映る影たちも大きくなったり小さくなったりしながら姿を変え、彼女が「夜は印象がだいぶ異なりますよ」と言うのにも頷ける。
さて、プロジェクトのタイトルは《「映り」としての圧縮》である。今般の新型コロナの影響で思わぬ方向転換を迫られた作家も多かったはずだが、諏訪さんもリアルな場で人を集めてイベントをしたり発言をしてもらったりすることのリスクを考慮し、インスタレーションをオンラインで配信するという企画がひらめいたという。
「例えば、Zoomなどのアプリを使ったオンラインの講義や会議が当たり前のようになりましたよね。でも、空間や人は実際に存在しているのに、平面として画面に映し出されるのがすごく不思議で。その感覚をタイトルのなかでは“圧縮”という言葉で表現しています。現実世界では何らかの現象を知覚する瞬間に身体性を感じると思うんですが、それは空間がなくても感じられるのか?とか、画面越しであっても触覚的に働きかけることができるのではないか?など、圧縮の世界にもさまざまな広がりがあると思うんです」(諏訪さん)
アートと科学が交差する時
「私が所属しているのは油画専攻ですが、私の研究室ではインスタレーションや映像作品を制作する学生が多いんですよ。私も学部入学前から化学反応や物理現象自体をインスタレーション作品の主な要素として捉えることができないかと試みていて、今も継続して自然現象の知覚を主なテーマとして作品を制作しています。 美術を学んだからこその視点で、科学的なことやフィジカルなもの、現象自体で状況や何かを描こうとしてもいいんじゃないかな、と」(諏訪さん)
そう話すように、彼女が作品をつくるうえで科学への関心は大きな鍵となっている。その原体験は小学生の時のこと。理科の先生がフラスコを振るだけで液体の色が変わる実験を見せてくれたことにある。
「知識として教わる科学ではなく、その場で起こっていることに、すごい!と衝撃を受けたのを覚えています。その後、高校への進学は理系か文系か迷いましたが、絵を描くことも好きだったし、計算によって得られるような答えを求めたいわけではなく視覚的な現象そのものに興味があるのだと思い、美術大学に進学しました」
今回のプロジェクトではインスタレーションの風景をオンライン配信したほか、かねてから交流のある東京工業大学物質理工学院の原正彦教授とのオンライン対談も実施された。そのなかで原先生が彼女の作品をこう考察するのが興味深い。
「映像を見ると、机の上で起きていることは一つひとつ別の現象なんだけれど、拡大して投影して、さらに影もあって、いろいろなものが重なり合って多体問題のように映し出されています。中心には物質と現象がありますが、それを外に映し出すことでさまざまなことが同時にかつ多重に見えてくる。そして、見ている人がいることによって見ている現象も変化するんです。存在すること自体があらゆるものを変えているから。だから見ている人も作品に参加しているということですね」
自然界にいて、人間はそのように目の前で起きていることの全体を見ているものだが、複数のものが重なり合って同時に起きていることをサイエンスの世界で理解できるのは、そのなかのせいぜい2つか3つの現象に過ぎないのだそう。続けて、原先生はこう話す。
「もともと“フィロソフィー(哲学)”と“フィジックス(物理学)”というのは表裏一体のものと考えられていたんです。20世紀に科学技術が進歩したことで、フィジックスの出口はすべて科学技術しかないような考え方になってしまいましたが。でも本当は、フィロソフィーを考えるうえで、その下層には新しい法則や本質を考えてみるメタフィジックスがあって、起きている現象をきちんと調べてみるフィジックスがある。そしてフィロソフィーとして新しい価値や概念を生み出す、という循環がなくてはならない。その循環がなくなってしまった20世紀の反省を踏まえて、今またフィロソフィーとフィジックスを統合して考える時代が来ていると思うんです。そういった意味でも諏訪さんの作品は、机の上にマテリアルやサイエンスといった自然界があって、諏訪さんというメタフィジックスの媒介者を通して、フィジックスをフィロソフィーへと循環させている。言葉にしようとするとそんな面倒くさい言い方になりますが、それを見る人に“体験させる”ということに意味があると思うんです」
こぼれ落ちてしまうものからリアリティを掬う
I LOVE YOUプロジェクトでの制作にあたって、「芸術は人を愛する」ということについて諏訪さんがどうとらえたか聞いた。
「芸術が人間にできることは何かとよく考えるのですが、たとえば科学的な現象と思想など普段ばらばらに考えられることが多い分野の事柄を自在に結ぶことができたり、逆に、密接につながり過ぎているものを切断してその断面を見てみることもできる。技術開発の現場などでは技術が向上していく反面、その場で様々な現象が起こっていくという状況のリアリティはあまり議論されずにこぼれ落ちてしまうかもしれませんが、アートであればそういったものも拾い上げることもできるのではないかと思います。そうやって、物事の探り方にいくつもの選択肢をくれることが、アートが人間に与えてくれる可能性なのではないでしょうか」
作品を見たときの「これは、何?」と湧いてくる疑問は、もしかすると、必ずしも一つの答えを導き出さなくてもいい、という“答え”そのものなのかもしれない。諏訪さんの作品を眺めているとそんなふうに思わずにはいられない。
「今の世の中は不確実なことばかりですよね。でも、さまざまな不確実な要素を組み合わせていくなかで、普遍的なものが見えてきたり、不確実性が生み出すものが現代のリアリティを見る手段になるのではないかと思います。そういうものを生み出せたらいいなと思うし、私も見てみたいんです」(諏訪さん)
写真:高橋マナミ 文:中村志保 編集:小林沙友里